1979年、新潟県見附市に生まれる。5人兄弟の3番目次男坊として生まれ、自由奔放に育つ。
家の周りには田畑が広がり、近くの小川や田んぼを遊び場にして、泥んこになりながら自然の中での遊びに明け暮れた。
四季によって変化する自然の空、風、空気、匂い、草花、作物、生き物、雪化粧・・・。小さな頃から五感をフル活用しながら、自然の中でたくさんの感性を磨いてきた。
町内対抗の野球大会で活躍する父の姿に憧れを抱く。小学校も野球が盛んで、同学年の仲間と共に野球にのめり込む。
私はサイドスロー投手だった父を真似し、ドッジボール,そして野球の時も横手投げだった。
しかし、当時は「サイドスローは腰を痛めやすい」ので小学生のサイドスローはご法度。試合の時は相手の親からヤジが飛ぶこともあったが、私は聞き流し、自分の意思を貫いた。
腰を痛めることもなかったし、私にとっては一番しっくりくる投げ方だった。「常識にとらわれない」そんな選択を小学生の時からしていた。
中学生では美術が好きで、自宅に絵を持ち帰ってまで細部まで描き続けていた。好きで夢中になれている時間はあっという間に過ぎていく。「何かに夢中になれる」って幸せな時間でもあった。当時描いた絵が美術の教科書に掲載された。
そんな私もいじめに悩む時があった。そして、私を救ってくれていたのは、世界で活躍するプロテニスプレイヤー伊達公子さんの活躍と笑顔だった。「楽しいからここまで続けられてきた」という言葉に心が動く。スポーツ=きつい、苦しいを乗り越えると思っていた私の価値観を変えた。
高校受験、志望校を担任に告げると「無理だからやめとけ」と一蹴。「行ける方法を教えてくだい」と私は毎日担任に食い下がり続けた。ついに観念した担任から言われた方法を愚直にこなし、志望校に合格する。「やる」と覚悟を決めた時、人はものすごいエネルギーと集中力で取り組める。そして無理と言われた目標を実現する奇跡を起こせることを体感した。
高校3年間は、甲子園を目指し高校野球に明け暮れた。不運にも、野球部の過渡期で指導者が毎年変わり、2学年以降は、選手自らが考え活動していくことになる。
「どうしたらもっと上手くなれるのか」
動画で研究したり、本も読み漁り、時には対戦校の投手コーチに教えを請うことも惜しまなかった。
受け身で教わるだけでは「主体性」は育たない。
自らが明確な目標を立て、試行錯誤しながら探究する面白さを体感した。そして、県内甲子園常連校にも互角に戦えるチームへと成長していく。
甲子園の夢届かず、燃え尽きた高3の夏。改めて、「自分は将来何がしたいんだろう」と自問する。
「選手の主体性」と「適切な野球指導」の融合が、より強いチームを作ると悟った私は、高校野球の指導者を目指すことに。
偏差値32。そんな底辺から大学受験の勉強が始まった。「やる」と決めた時は、力を発揮してきた。3ヶ月で偏差値50まで上げ、なんとか大学に合格する。
しかし、その夢をも打ち砕かれそうになる出来事があった。「高校の先生になって、野球を教える」夢を家族や親戚に語えた時、「お前がなれるわけがない」と失笑、否定、反対の言葉のシャワーを浴び続ける。どれくらい泣いただろう。身近で応援してくれるはずの存在が、ドリームキラーに変わった瞬間だった。
そんな時、一人の叔父が私に声をかけてくれた。
「先生になるのは簡単じゃない。挑戦してもなれないかもしれない。それも覚悟で「やりたい」と思うなら、挑戦してみたらいい」
自分の「可能性を信じてくれた」たった一人の叔父によって、私の人生は変わっていく。
大学では社会福祉を学び、教員免許取得を目指す。スポーツは体育会準硬式野球部に所属した。
当時、新潟県の甲子園実績は全国最下位。最弱県新潟の野球は、関東で通用することを証明したい。そんなよく分からない反骨心で大学野球にものめり込んだ。
大学3年時に東都大学選抜メンバーに選ばれ、金沢県で行われた親善試合において投手として「完全試合」を達成する。
今まで自分中心で世界を見ていた私が、「自分は仲間に活かされていた」ことに気付き、仲間への感謝の思いに気づいた何事にも変えられない経験だった。そして、自分に足りなかったことを教えてくれた神様からのプレゼントだった。
教員免許を取得し、採用試験に臨むが不採用となる……。
一度、社会経験を積もうと信用金庫に勤務。実業団軟式野球部に所属し、日本一を目指しながら、さらに野球知識・スキルを磨く。
しかし、指導者からの体罰、先輩からの圧力により、心も体も蝕まれていき、体重は10キロ以上減少し、イップスを発症した。10mの距離が投げられなくなってしまう。
全国大会(天皇賜杯)で準優勝するも、企業合併に伴い野球部が廃部に追い込まれ、1年で環境を変える決断をすることになる。
その後、 学校の講師を3年務め、2016年念願の教員採用試験に合格し、東京都の知的特別支援学校で4年、ろう学校で7年勤務した。
「あの子は問題児」「あの子には無理」そんな心無い言葉を周囲で聞くたびに、「そんなことはない」と心の中では反発した。
子どもの可能性を信じ、その子の才能を引き出すことに時間とエネルギーの多くを使う日々だった。
いかに「個性あふれる子どもたちの見えている世界」を見て感じられるようになるか。そこにたくさんヒントが眠っていた。
「子どもの可能性は無限大である」
「大人がこどもの可能性に蓋をしてはいけない」
問題児と言われていた子が「優等生」と言われるようになる。できないと思っていたことが「できる」ようになる、その度に周囲の同僚は驚いた。ろう学校では周囲に大学受験を反対された子が、国立大学に合格した。就職は難しいと言われた生徒が、立派に会社で働いた。
強い信念をもって子供・生徒と接することで、子どもの可能性の大きさに触れる経験をする。
2010年ろう学校に異動し、中学・高校の野球指導者として道がスタートした。聴覚障がいのある選手たちが聴者と対等に戦うには!?新たな探究が始まった。
その過程の中で、スポーツメンタルコーチングに出会うことになる。師匠柘植陽一郎の元でオリンピック金メダリストをも生み出すスポーツメンタルコーチングを学び、そのあり方、関わり方、アプローチ方法を磨いていった。
教員として、そして野球指導者として多くの時間を子どもたちや選手のために時間を費やしてきたが、犠牲にしてきたものやその代償も大きかった。そして人生の大きな岐路に立つことになる。
「自分が生きている意味」について問い、
「自分が社会に貢献できること」を探す旅が始まる。
フィリピンで慈善活動と自然保護活動、カンボジアへの旅、ニューヨークへの一人旅、今までやってこなかった新しいことへの挑戦……
その過程で環境ジャーナリストの女性に出会う。
「あなたはあなたのままでいい」
その言葉に、私の心の奥に燻っていたエネルギー・感情が一気に解放されていった。
「その人らしさを大切に」
「誰の中にもある可能性を信じていく」
「障がいのある子や選手の挑戦を支え、存在価値を高めていく」
誰かのために、私自身の持つ「経験」「スポーツ」「教育」を通じて貢献していくという使命に気づくことになる。
人生は一度きり。使命を全うできる挑戦と貢献をし続けたい思いが強くなり、教員の職を辞する。そして、2017年スポーツメンタルコーチとして独立。
全国で唯一手話の使えるスポーツメンタルコーチとして、活動を開始する。ここ5年でコーチングセッション時間累計1000時間、年間セッション数200回を超える。
デフ(聴覚障がい)サッカー女子、デフフットサル女子代表サポートをはじめ、小学校3年生からトップアスリートまで様々なスポーツの選手をサポートしてきた。
私を必要として声をかけてくれた選手・チーム・指導者・保護者の方と共に、未来を切り開くために歩む過程は、私にとってもっとも幸福な時間でもある。
これからも自分自身を磨き続けながら、選手が望む「成長」と「結果」、「豊かな人生」を手に入れるために、全力でサポートし続けます。
*写真提供:日本ろう者サッカー協会